リハビリ写真生活

2021.09 脳梗塞発症。現在、右半身片麻痺があります。リハビリを兼ねて街角や花を中心に写真を写しています。ブログは、手のリハビリを兼ねて始めました。  たわいのない話ばかりですが、よろしくお願いします。

”疲れた”と言う言葉への葛藤。

 おはようございます、管理人のTomoです。”疲れた”と言う言葉は諸刃の刃と感じた日の話。今日は情けない話なので、読んでいて独りよがりな所があるかと思います。先にお話ししておきます。

 昨日は、いつもより1時間半ほど長めに働いた為か、とても疲れてしまって、帰宅してからも起きていられなくて寝てしまったのです。夕食の為に起きて食卓に向かったのですが、疲れ切ってしまっていて食事を見ても食べる気力が起きませんでした。そこで「疲れ切って…食べるのもしんどい」と発した所、父親から「疲れた疲れたと家でも仕事でも言われた方は嫌になる」と言う発言をされて一気に食欲が低下したのと、そう周りに言わせてしまうような「自分への怒りと情けなさ」が混在した気持ちになって、食べられなくなってしまいました。

 確かに、脳梗塞になってから麻痺の身体が自由に行かず、少し動くのでも疲れてしまいます。でも動かないと更に良くないと思うので何とか頑張ってはいますが、仕事でも何でも連続的に活動するにして、4時間くらいですと、疲れの中に余力が残って次の日に備えられるのですが、5~6時間以上仕事などすると、燃料タンク切れな感じで、その日はもう燃料切れ、下手すると次の日にも影響が出るかもと言う感じ。結構、1時間増えただけですごい虚脱感になります。なので、注意はしていますが、仕事だとそううまくは時間が計算できない事もありますね。

 だいぶ脳梗塞後の自分の取扱説明書も分かってきた矢先でしたので最近はあまり無理はしていないのですが、昨日は、5時間半働けたので余力が残ってない感じでした。でも幸いにして、2時間ほど仮眠を取ったらだいぶ改善したのですが、その後、食卓で先ほどのようなやり取りがあったわけです。父親は、脳梗塞後の僕の状況を見て情けなく思ったのか、気力をしっかり持つようにと思ったのか、僕の事を想って発言してくれたとは思うのです。このやり取りの後、何気なく発している「疲れた」と言う言葉に甘えている自分がいるのかとも思いました。正直、仕事でも何でも「疲れた」と言えば休めますし、心配してもらえます。ただ僕としては甘えのつもりで「疲れた」と発言しているつもりはなかったのです。でも自分で自分の事がわからなくなってきました。もしかして、潜在的な所で、「脳梗塞で麻痺がある」、「疲れる」、「自由に何事も出来ない」など周りに甘えてしまっているのだろうかと…。そうなると、「今疲れていて休みたい」と言っている自分は、本当は「サボりたい自分」なのかとか錯覚してしまうような気持になりました。

 そんな葛藤が先ほどの「自分への怒りと情けなさ」に繋がるのです。無意識でも意識的でも「疲れた」と気軽に?発してしまう自分への怒りと、退院後3か月半になりますが、上手く生活できなくてすぐ疲れてしまう自分への情けなさとにです。確かに周りもみんなそれぞれ疲れていますから僕だけではない訳です。少し、今までの自分を反省しつつ、もう少し日常で気軽に「疲れた」と言わないようにしてみようかと思います。きっと言わなくても周りの人はわかってくれているんだと思うから。本当にどうしようもない時、「疲れたから休む」と言えばいいんですしね。やはり客観的に見て、その点は少し自分の甘えもあるかと思うのです

 「疲れた」と言う言葉は時として、僕を弁護してくれますが、反面、こういう事にもなりますから僕には諸刃の刃と感じました。今日はちょっと葛藤の様なお話でした。7か月前までは普通に動けてたし、今でも嘘であったらと思うのですが、自分の身体を見れば現実なわけで何とか乗り越えたいと思います。

 今日のこの投稿は何年か後、完全回復した自分へ宛てた手紙のつもりで書いてます。では、今日も良い一日になりますように。

●今日の一枚 [野良猫と街角]FUJIFILM X-T3+XF23mm F2R WR

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街角と野良猫/FUJIFILM X-T3+XF23mm F2R WR